海外都市計画交流会
2000年(モンゴル/ウランバートル)

1. 視察の趣旨

 社会主義国であったモンゴルは、89年末から民主化運動が起こり、90年7月に初めての複数政党による自由選挙が行われ、新憲法が制定され、国名もモンゴル人民共和国からモンゴル国となった。ソ連経済の破綻の影響を受け経済は混乱したが、94年ごろから西側諸国の投資等によって新しい経済体制に移行しつつある。

 民主化という自由経済体制への移行、遊牧の民の都市への定住などは、テレビ等で報道されている、ストリート・チルドレンの問題や家畜の大量死などを引き起こしている。このようなウランバートルの都市状況を視察し、モンゴルの都市を理解するとともに、都市環境改善の可能性を探る目的で、本視察は企画された。


2. 参加者

 鳴海邦碩(団長・大阪大学)/澤木昌典(大阪大学)/江川直樹(現代計画研究所)/上甫木昭春(大阪府立大学)/土井幸平(大阪市立大学)/角野幸博(武庫川女子大)/岩本康男(大阪市)/佐藤道彦(大阪市)/池田順一(都市工学情報センター)/田中雅人(大阪ガス)


3. 日程
  • 出 発:2000年8月12日(第一陣)
  • 出 発:2000年8月16日(第二陣)
  • 帰 国:2000年8月20日

4. 主な交流会
  1. 2000年8月14日 青年海外協力隊(建築、都市計画関連隊員)との懇談会、参加者:塩月恵里(横浜市所属、配属先、モンゴル建設建築事業団)他
  2. 2000年8月15日 モンゴル建設建築事業団 副局長Gombo Myagmar氏からレクチャーを受け、意見交換
  3. 2000年8月18日 ウランバートル市都市計画関連担当者B.Tumurkhuyag氏およびNarangerel.G氏からレクチャーを受け、意見交換

5. ウランバートルの都市を巡る諸現象
@都市計画の経緯
 1900年代始めのウランバートルは、ラマ教寺院の門前に発達した人口5万の都市であった。モンゴルは1921年ロシア革命の影響を受けソ連についで社会主義国となった。1930年代はソ連の指導で都市計画が行なわれ、40年代以降中心広場を中心に市街化が進んだ。以降、都市計画はロシア人技師によって、あるいはその指導で行なわれた。58年最初のマスタープランが人口10万人を想定して作成され、63年には第二次マスタープランが人口25万人を想定した。計画の中心はアパート地区、工業地区で、土地利用計画がなく、諸施設の建設を協議で決めていくというのが基本であった。74年には第三次マスタープラン、86年には第四次マスタープランがロシア人技師によって作成された。
 1990年人民革命党一党独裁が放棄され、ソ連崩壊、民主化以降の政治改革などの混乱が続き、ようやく94年ごろから、経済も順調な展開をみせるようになった。90年の人口は60万人であった。98年から新しいマスタープラン作成に取り掛かり、都市計画研究所が設立された。99年には住宅法が制定され、今年、都市計画法が制定された。都市計画法は入手してあり、現在翻訳中である。
A都市問題の諸側面と課題
 モンゴルの人口の1/4がウランバートルに集まり、その人口は増加の傾向にある。草原から都市にやってくる人々は、ゲル(幕舎)に居住する。ウランバートル周辺にはこのゲル市街地が広範に形成されている。一種の巨大な仮設都市である。
 上下水道が未整備であるため、その整備が最優先課題である。一方、車の増加も著しく、交通混雑状況をうみ出している。こうした都市への人口の集中は、水質の悪化、森林破壊の原因ともなっている。
 最近までゲルは建物あるいは住宅とみなされていなかった。ゲルは遊牧の幕舎である。しかし、これが立地することは居住者が増えることを意味している。このような状況下で、住宅とは何かというところから計画づくりが展開しなければならない。専門家の中でも、ゲル地区をアパートに建て替えるべきという意見と、ゲル地区をいわば低層住宅地とみなしていくべき、という両極の意見が存在している。
 国民の多くが遊牧に従事しており、政府としては人口1〜2万人の地方中心都市を育成していきたいと考えている。食品加工産業を振興し、地方経済の拠点にしていく構想である。
B民主化による新たな課題
 民主化はこれまでの仕組みを大きく変えてしまった。第一は、住宅の私的所有が可能になったこと、第二は、商業等、個人事業が可能になったことである。この影響が都市空間に大きな影響をもたらしつつある。これに関連して以下のトピックスで若干の印象を述べる。

6. トピックス
@仮設商業建築の建設ラッシュ
 ウランバートルでは、民主化以降の自営商業の増加が都市にもたらしている影響が目につく。社会主義時代の商業は一般的に低調である。それはいわゆる配給的な物資の配分が原則で、商業は小数の上流階級と観光客等の外国人相手になされるからである。それが民主化以降、自由市場が開設(ザハ)される他、アパートの1階部分が商業施設化したり小さなキオスクが乱立するようになっている。
 ソ連の影響下にあった時代に形成された市街地は、いわゆるソ連様式で計画されており、その空間的にゆったりした環境は、つまりその空間密度は、モンゴルの人々の環境意識に適合していたのではないかと思われる。しかし、ソ連様式の空間構造は、商業にとっては極めて不都合な形態となっている。都市計画に商業という機能に関する配慮が欠落しているのである。
 それを補うために、多くのキオスク的な小規模建築が各所に建てられつつある。それが都市景観に与える影響は極めて大きい。やり方によっては魅力的にもなるのだが、今のところは逆にマイナスに作用している。そうした小規模建築は仮設的、可動的なのだが、ゲルのもっている完成度に欠けるのである。
 ウランバートルでどのような商業景観が形成されていくのか、着目したいところである。
A都市ゲル(幕舎)の空間領域
 ウランバートル周辺に形成された都市ゲルあるいは定住ゲル地区では、敷地が木の塀で囲まれ、その中にゲルが設置される。
 ゲルによって形成される都市的な集落は、フレーと呼ばれ、ウランバートルもまた寺院の門前に形成されたフレーがその前身である。絵図によれば、ウランバートルのフレーの中に集合するゲル敷地は木の塀で囲まれていたようであるが、木材は手軽に入手しやすい材料ではない。そのような木材を使うということ自体に、そこを住いの場所として「重くする」という意味合いがあったのではないだろうか。
 もう一つはテリトリーの実体化である。草原におけるゲルとゲルの間の空間を近づける、それは草原を折り畳んでいくようなものである。草原を折り畳んで木の塀になった。そのように見える。
 あるいは、馬などを囲い内で飼うことがあったために、このような形態ができたのかもしれない。現在はそれは馬ではなく、自動車になっているが。
 現在の囲い内の空間利用を概観すると、ゲル、木造の家(密閉性が低いので夏の家らしい)、トイレ、駐車場、菜園、などに利用されている。この空間利用をつぶさに見ていくことによって、モンゴルの人々の空間意識ないし土地意識が明らかになる可能性がある。
B都市にやってきたゲル(幕舎)
 1368年、明の北伐軍は大都(現北京)に近い通州を陥れた。都に近い重要な拠点を占領されたという報告を受けた順帝は、皇妃・太子らを集めて、「戦乱をさけてモンゴリアに行こう」と説ききかせた。その日の明け方に群臣会議を開き北方への逃避を決定し、夜になってから長城を越えてモンゴリアに向かった。元朝は予定の行動のように、淡々と首都を明け渡していった。東は遼東西は甘粛にわたる広大な地域から、元朝につかえた漢人も含めて、数十万の人々がモンゴリアに帰還したのである。これをもって約百年にわたる元朝の中国支配は終わった。(『中国文明の歴史 7:大モンゴル帝国』より)
 このような記述から推測できることは、百年の長きにわたる中国支配にもかかわらず、モンゴルの人々は、常に草原を故郷として思い続けていたのではないかということである。「中国はいわば都市の象徴である」と考えれば、現在、都市に居住する多くのモンゴルの人々も、また、常に草原を故郷として思い続けている可能性がある。
 このような草原の人々が如何に都市を形作るかは、極めて興味深いことがらである。そこには人々の空間意識が反映しているに違いない。


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