海外都市計画交流会
1998年(対象国:中国)

静かなる革命:1990−1995 中国本土の都市計画
イギリスと中国との比較研究
<抄>
第一講として:Yan-Jing Zhao(趙燕菁)
監訳 田端 修  住環境学研究所
訳  川井 慶子

中国おいては、いくつもの壮大な古代都市がつくられたが、今世紀始めにいたるまで都市計画の理論と方法はほとんど変化がなかった。今世紀の1930年から40年の間、いくつかの都市において経済条件が政治形態に代わって中国都市開発の歴史上はじめて都市成長の主要な理由になった。上海・広州のような急速に成長する都市では、その頃の計画の質は貧困であった。
都市の近代化要求にあわせるため、多くのプラニング理論やアイデアが主に北米、ヨーロッパ、日本で教育された人々を介して中国に紹介された。ハワ−ドによる田園都市やランファンによるワシントン計画などの理論や経験が、アカデミックな世界においても知られており、多くのプラニングの提案がなされたが、そのひとつも実行はされなかった。
第二次世界大戦とその後の内戦は計画の理論と実践の両側面で具体化のための機会を持たらさなかった。
1949年共産主義者が本土の政治体制を引き継いだ。それ以後、中国におけるプラニングは三つの方向に枝分かれした。
  1. 本土は旧ソビエトからの計画方法を採用し、
  2. 台湾はUSAの影響の下で、
  3. 香港はイギリス的方法に従った。
 1950年代、100以上の都市は旧ソビエト型モデルに従ってマスタープランを作った。つづく中国と旧ソビエトとの論争と文化革命は事態を悪化させた。工場群は都市から遠く離れた防御し易い場所に設置された。都市地域には十分な仕事がなかったため、人々は地方に追いやられた。この時期、都市化の進行は更に遅れた。
 1960年代と1970年代のほとんどの期間、都市計画は不必要になった。プラニング組織は解体された。プランナーは彼らの職業を変えなければならなかった。中国のプランナーは彼らの職業的立場を全く確立できず、ほとんどの提案はちり紙同然となった。
 80年代の初頭から事態は変わった。都市はもう一度、経済の舞台の中心に戻って来た。プランナーは全国から召集された。大学の計画学科も再開した。プランナ−達は中央レベルから地方レベルへいたるそれぞれの建設委員会に彼らのポストを見い出した。北京、上海をはじめとする大都市はそれぞれマスタ−プランをつくり変えた。
 しかし、市長達は専門的援助なしで都市問題をうまく処理出来ると考えたので、プランナ−達の意見は十分に尊重されなかった。都市プランナ−の能力の不十分さを考えればこれは理解できる。
 劇的な変化は90年代の初頭から起こった。1989年の天安門事件の後、プランナーの仕事を再開する時期が急速に縮まった。小平氏は滑走路が短か過ぎる飛行場から航空機としての中国を離陸させることを決心した。結果は夢を大幅に超えるものとなった。大量の投資が中国に流れ込んだ。GDP成長率はそれ以来世界最高を維持している。都市は竜巻の中心になったのである。
 都市プランナ−は経済活動の主役のひとりになった。そのような急速な成長を専門的な援助なしでは取り扱えない。訓練区域内で車を運転することと、車道で運転することは全く違う。プランナーは本物の車を運転したことがないにもかかわらず、彼らは専門(職業的)の運転者として運転席を引き受けることになった。
 世界最大の戦後ニュータウン:深セン(土偏に川)のマスタープランづくりの成功は、中国都市計画の評価を確立し、また彼らに自信を与えた。そして彼らはイギリスのニュータウン理論から卒業する資格があると考えるようになったといってよい。
プランナーの位置は特に地方レベルで急速に向上した。大半のプラニング組織は建設委員会からは独立していた。彼らは重要な政策づくりのほとんどの過程に参加した。
 土地の価値の上昇も都市プランナーの位置を向上させる助けになる。計画がもたらす土地の価値変換は大きな富を意味する。プラニングそれ自身で、土地の価値をめざましいほどに高めることが出来る。ファションデザインの違いが同じ布を全く違う値段にし、開発は異なるプラニングで違う結果をもたらすだろう。
 中国人プランナー達はまた彼ら自身の専門的言語を組み立てる事に奮闘している。彼らは全ての者から、特に技術者から専門用語を借りる。プランナー達は技術その他の専門用語が彼らの意見を防御したり、彼らの仕事をより科学的に見せるために使うことが容易である事を知っている。プラニングは技術者、建築家、地理学者、測量家、ランドスケープアーキテクトそして経済学者の混合から構成されることになる。
 プランナーは、それら一団の新参者であり、事態が急に変わったこともあって、彼ら自身のプラニング理論を発展させる時間があまりにも少ない。全ての操縦士が持ち合わせている操作の手びきは、英語かロシア語で書かれている。それをすぐに使えるよう母国語(中国語)に訳せないのである。彼らは操縦する時作業のゴーサインを出すと同時に、心の中では作業の無事と好運を天に祈らなければならないのである。中国人プランナーにとって、新しい操作システムを開発することと、操作手引きを母国語(中国語)で書くことはどうしても必要で緊急なことである。
 政治家達が道具としてプラニングの目標を利用することが出来るにもかかわらず、プラニング原理の背後にあって形のない支配を行っているのは、発展途上経済か先進経済か、計画経済か市場経済か、などの経済的特質である。
 一般的にプラニング原理の優先度に関わる三つの社会的目的がある:安全、成長、そして継続である。一国のプラニングシステムを評価するとき、それらの社会的目的はイデオロギ−よりも根源的である。
 1960年から70年の間、中国は同時期のふたつの超大国に対抗できる世界で唯一の国であった。安全保障は政策担当者の主要な関心事であった。それゆえに、プラニングの常識とは逆行するが、ほとんどの産業・雇用中心は高コストの農村地域や山間地域に建設された。
 USAとの関係の上昇は安全保障に対して自信を与えた。1970年代のおわりから成長が中国の主題となった。生活においては量の問題はまだ質のそれよりも重要である。人々は量を満たす前に彼らの生活様式を改善出来るはずがない。
 第二次世界大戦後の再建のあと、イギリスは高度に工業化、都市化した国になった。内部の社会経済構造の変化は、フィジカルな外部拡張に置き換えられた。持続可能な開発はプランナーの座右の銘になっている。プラニングの方法は社会の要求の変化を反映して、1970年代にフィジカルプラニングからデベロップメントプラニングへと変化している。
 プラニングの優先権はさまざまな変化に関係する。環境は経済開発の代償として使われてはいけない。イギリスはもはや競争に勝つ興奮剤を必要としない。質は、プランナ−の主要な関心事として量に取ってかわった。彼らのうち数人は、むしろ競争のルールを変え、残りの世界にそれを注視させるように心づもりしている。
 イギリス人プランナー達と同じように、多くの中国人プランナ−達は社会の発展・変化に責任を持つ使者であると信じている。彼らの幾人かは社会は問いを与えるものであり、プランナーはその問いに答える者であることを認めている。社会はただその要求に最もふさわしい答えを選ぶだけである。
 中国人プランナーは変り続けているシステムの下で働くことに慣れなければいけないし、変化する環境の中でプラニングを適応させるため、より柔軟な方法を開発しなければいけない。中国においては成長が都市計画や環境保護の主題となり、公平な社会配分ということは旋律の長所とならないであろう。
 中国人プランナーは手動の操作システムを使う傾向があり、イギリス人プランナーは自動操縦システムを好む傾向にあることとつながる。市場経済システムの発展に伴って、人々はより直接的に市場から情報を得ることになり、中国では経済における政府の役割は小さくなる。目にみえない操作方法は中国の経済生活に介入しようとする政府の主要な道具となる目に見える操作方法に勝るであろう。中国のプランナーは市場機構に頼る彼らのプラニングの手法をもっともっと体得しなければならない。
 旧ソビエトの同志と同じように、今世紀1950-60年代の中国人プランナーは都市の形とフィジカルな計画の中に、無階級の共産主義社会における社会関係を反映し、鋳型にはめる都市計画を実行しようと努力していた。中国におけるマスタープランはソビエトのもののコピーそのものであった。
 建設委員会のプランナー達はマスタープランを直接準備するために地方都市に送られた。ふつうマスタープランは機密事項であった。それらの内容は小数の人々だけが知っていた。地方の役人はプランナーのマスタープランの準備作業を手伝ったが、中央からのプランナーだけがこの都市で起こるであろう事を知っており、彼らは最終決定をする権利を持っていなかった。プランナーの義務は、オールマイティな計画委員会で作られた5カ年計画の経済的目標を、フィジカルな表現に解釈・翻訳することであった。
 大躍進政策の失敗の後、国家計画委員会のプランナー達により立案された計画は犠牲の羊となった。計画委員会を除く全てのプランニング組織は解任された。共産主義都市は悪夢になった。
 80年代初頭、中国人の都市計画が回復したとき、何人かのプランナーは、共産主義的理想郷づくりの試みを継続しようとした。しかし、つづく市場志向型の改革は彼らの最後の試みを妨げる。プランニングの哲学は相当程度困惑状態になった。自然科学が80年代の始めに普及した。システムダイナミックス、管理理論、システム理論、統計学などである。プランナー達はたくさんの彼ら自身の表現を発明したが、それらが社会に通じるかどうかは気に止めなかった。彼らは独り言を言っていた。彼らは完全なプラニングを見つけだすことに努めたのである。
 “最適規模の都市”といったトピックがプラニング業界で熱烈な話題となった。外国のプランニング理論がつぎつぎに中国に紹介された。それらの多くは大学からじかにやってきた。80年代半ばに中国人が最初に知ったのはストラクチャープランであった。イギリス人のプランナーグループが北京で一連の講義を行った。計画部局の前管理者はそのコ−スを接待し、建設代理大臣は全てのコ−スに出席した。ストラクチャープランは一夜にしてスマートな言葉になった。ストラクチャープランとは別に、イギリスのニュータウンの理論と実践、USAのラドバーンシステム理論は別にはまたこの時期人気があった。
 彼らの手腕を試す機会が80年代後半に中国人プランナーにやってきた。特区地域が中国人プランナーに彼らの理論を実践するための60年代以来の機会を与えたのである。リハーサルは終わった。それはショー本番であった。中国人プランナーはほとんどこれらの進んだ手段・武器が無力であることに気づいた。くずのようなマスタープランはごまかしに過ぎない。
 深セン(土偏に川)は中国のプラニングにより自身を与えた。マスタープランは中国のプラニングシステムの大黒柱となった。都市計画法はマスタープランの位置を高めた。90年代初頭から伝統的計画理論の根っこが土地市場の具体化によって揺さぶられることになった。新しい方法が、新しい要求にあわすため必要とされている。


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